「自分」で考える技術

どんな本?

哲学、倫理学を専門とする札幌大学名誉教授の鷲田小彌太さんが、自分で考えるための頭の使い方について、哲学者とは思えないほど、わかりやすく親しみやすい言葉で説明した本。具体例が豊富で適切なのも理解しやすさを後押ししています。

2014年4月発行。

具体的には次のような内容があります。

■広く考えることと、深く考えることの違い

■自分で考えるために必要なものとは?

■スペシャリストになるか、ゼネラリストになるか?

■なぜ宮本武蔵は将軍の剣の指南役になれなかったのか?

■なぜ、柳生新陰流は、将軍の剣の指南役になれたのか?

■芸術家が大切にしているものとは?

■天才と凡人の大きな違い

■よく考えるための最短コースとは?

■「論理的」とはどういうことなのか?

■思考実験の4つのテーゼ

所感

こんな面白い人がいることを知らなかったのかと、自分の世の中の知らなさ加減に幻滅しました。

それくらい「おぉ!この本すげぇ!なるほど!」と感嘆する回数の多かった本です。

しかも鷲田小彌太さん、調べてみると、めっちゃ著作あるし。

これから、この人の本を読む楽しみが増えました。

これも出会いです。

鷲田さんは昔、マルクスを研究していて、社会思想に傾倒していたみたいですが、1980年代に「天皇論」という本も書かれていて、このころにマルクス主義とはおさらばしたみたいです。

ごく最近まで、哲学者って簡単なことを難しく言いたがる人種だと思っていました。

だから、哲学って聞いただけで、近寄りたくないと思っていたのです。

しかし、最近知った、ハーバード大学の政治哲学の教授マイケル・サンデル先生と、この本の著者である鷲田小彌太先生のおかげで、本当に頭の良い人は難しいことを、わかりやすく説明できる人なんだということが実感できています。

さて、この本は「自分」で考える技術についての本です。

読みやすい、理解しやすい、おもしろい本です。

考え方のコツがものすごくわかりやすく説明されています。

まず、技術というものについての説明が、かの剣豪、宮本武蔵と柳生新陰流の違いを例に説明されているのですが、「ああ、なるほど!」とストンと腹落ちします。

なぜ、宮本武蔵は将軍の指南役になれなかったのか?

それは、宮本武蔵の剣は、武蔵の才能と凄絶な訓練の賜物であって、技術として伝えられるものではないと。

そのことは、武蔵に弟子がいなかったことで明らか。

一方、将軍の指南役となった柳生新陰流は、なぜ指南役となれたのか?

それは、剣術のひとつひとつの動きを分解し、誰でも再現可能な「技術」として体系化したから。

それによって、将軍でも(というと失礼ですが)剣術を学ぶことができたというわけです。

そして技術についてこうまとめています。

●芸術といわれているものは、ほとんどが技術に分解できる、ということは知っておいてよいと思います。

●レーニン、革命は技術だとみなそうとしたのは、革命家の恣意的な意志に、可能なかぎり、革命の運命を委ねたくない、という考えからでたものです。

●天才ほど、技術を大切にする、ということは、私たちの教訓になるのではないでしょうか。ところが、凡人は、おうおうにして、部分部分を組み立てる、時間のかかる労苦をカットして、一足飛びに、物事の核心(生命)を握ろうとしてしまうものなのです。ですから、すぐ失敗して、二度と試みない、ということで終わるのです。

これを読んだとき、三島由紀夫が「文章読本」の中で書いていた一節をふと思い出しました。

文章というものには、微妙な職業的特質があるのであります。誰にでも書けるように見えるごく平易な文章、誰の耳目にも入りやすい文章、そういう文章にも特殊な職業的洗練がこらされていることは、見逃されがちであります。

こう、述べています。

三島自身、文章を書くことは技術である、と考えていたということではないでしょうか。

小説家はとかくアートの世界の人間だと思いがちですが、文章も技術を身につけることによって、上達するということになれば勇気づけられます。

私がそもそもなぜこんなブログを書いているかとういと、文章が上手くなりたいと切望しているからです。

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もうひとつ、圧巻なのが、「論理的」であるとはどういうことか、についての記述です。

著者は、論理的であるというのは、乱暴で、手っ取り早く、こわい、ことだと言います。

どういうことでしょうか?

ちょっと長いんですが、この部分は私自身、何度も反復して身に付けたいので、そのまま引用します。

●思考実験という遊戯

考えるというのは、すべて、架空の実験だ、というくらいに思ってください。この世界では、すべてのことが、たちどころに可能になる、とみなしてください。どれほど荒唐無稽に見えることでも、まったくの出鱈目でも、存在理由のある世界なのです。―すべてを、自由に作り出すことができる。これが、第一テーゼです。

この世界には、絶対的な真理なぞありません。不動の根拠や、歴史的真実といわれているものも、いつでも、好むままに、ひっくり返すことのできる、イフとフィクションの罷り通る世界なのです。―すべてを、破壊できる。これが第二テーゼです。

もちろん、この架空実験工房の主人は、考える本人、あなた、です。あなただけです。あなたは、神であり、悪魔でもあります。どんな行為も可能であり、どんな悪行も許されます。一切のことが、あなたの思考にまかされているのです。―あんたが、大将。これが、第三テーゼです。

思考実験で一番重要なのは、失敗が許される、ということです。上手くゆかなかったら、いつでもやめていいのです。何度でも試みることが可能ということです。しかも、結果に責任を負う必要は、まったくありません。ですから、一番の禁物は、意に沿わないことを、強制することです。みんながこういうから、現実がこうだから、仕方なく従う、という態度です。―無責任でゆけ。これが第四テーゼです。

思考実験のなかでは、宇宙の果てを突き抜けることも可能です。アメリカなんか、一ひねりで、この地球上から抹殺することだって、簡単にできます。アマゾンのジャングルを切り倒して、砂漠にしたって平気です。良心の呵責を感じることなく、水爆搭載のミサイル発射のボタンをおすことができます。

思考実験工房では、ただ一つのことを除いて、すべてのことが許されます。ただ一つのこととは思考の世界と実在の世界とを混同しない、ということです。実在の世界では、思考の世界とは、異なる、まったく逆のテーゼが、通用しているのです。

●「論理的」ということは、「極論」ということである

考え・書く技術のなかで、一番大切に思われているのは、「論理的」ということです。論理的というと、知的で、近寄り難く、素敵、ということと思われるかも知れません。でも、乱暴で、手っ取り早く、こわい、というのが、論理的なことの、本性のような気がします。

例えば、地球の人口爆発、という問題を考えてみましょう。

人口爆発は、貧困地帯に集中している。貧困地帯は、自国力で扶養できない人口を抱えている。その国に、餓死や疫病等による生命の危機があるからといって、援助をすると、ますます、人口は増加する。だから、人口爆発を防ぐためには、援助なぞやめて、その国の事情に、自力に、自然増加にまかすべきである。つまり、扶養可能な人口のレベルに落ち着くのを、待つことである。

人道も、倫理も、先進国の義務もいれずに、「純」論理的に考えると、こういう結論になります。(mちろん、別な論理で、別な結論だった導き出すことが可能です。)一見して、「極論」ですね。

そう、論理的ということは、論理以外の条件を、まずもって無視する態度ですから、極論にならざるをえないのです。極端ということを、私は、間違っているとか、駄目だとか、ここで、いいたいのではありません。考えたり書いたりする場合、まず、論理に徹すること、したがって、むしろ、極論を張ってみることを奨めたいのです。現実の条件はこうこうで、困難だ。こんなことをいうと、人道的非難をこうむる、などということを、まったく無視する、ということでもあります。はじめから、みんながこういうだろう、こんなことをする条件はどこにもない、などということであれば、考えに筋が通らなくなるは当然なのです。

私は、思考実験が、上手くゆくかどうかは、極論を張れるかどうか、にかかっていると思います。「実験」とは、「純粋思考」、「純論理」の場だからです。自然科学の実験が、純粋状態を前提するのと、同じです。

●両極はあい通じる

人口爆発の問題を、もう一度取り上げてみましょう。

人口爆発は、貧困地帯に起こっている。どういう理由があるにせよ、生命の差し迫った危機を、見て見ないふりはできない。人命救助のための援助は、最優先されるべきだ。こういう人道主義のもとに、援助が増強される。それによって、さらに、人口爆発が進む。しかし、いずれ、援助には限界がある。極大にまで増加した、貧困地帯の人口は、増加のために、いっそう危機を大きくし、ついには、援助のかいなく、いえ、援助のゆえに、急激な人口減少、一民族、一国、ないしは、貧困地帯全域の滅亡、という状態に追い込まれる。

人口爆発の問題に対して、一方は、援助する、一方は、援助しない、という対極的な考えが、同じ結論―貧困地帯の人口減少―に落ち着くのです。まったく対立する意見なのに、結論が同じ、ということを両極はあい通じる、といいます。

(中略)

繰り返し強調すれば、思考実験においては、極論を張ることが重要です。しかも、極論を張ると、対極と思われている意見をも、同じ出口に導いてしまうのです。このことは、論理をどこまでも推し進める重要性と危険性のいずれをも、教えているように思われます。

この部分は何度も読み返して、自分の血肉にしたいと感じました。

思考実験、4つのテーゼ、極論、この3つのキーワードを得ただけで、本書の数十倍、数百倍の価値があります。

ピックアップ

●これは経験則からしかいえないのですが、関係書を1000冊読むと、自分のなかに、ある思考の流れめいたものができることはたしかです。10冊なら、できかねます。

●広く考えるとは、広く集める、とほぼ同義と思っていいのです。

●自分で考えるためには、他者の考えはもちろん、種々雑多な経験や材料を収集しなければなりません。

●一つのことだけを深く問いつめるだけでは駄目だ、ということです。広く浅く漁ることを通して、いくつかのポイントを深堀りしてゆくようなやり方がベターだ、ということになります。

●なぜ、武蔵は、将軍の指南役になれなかったのでしょう。反対に、なぜ柳生は指南役になったのでしょう。

●柳生新陰流は、剣の技を、一つ一つ分解し、その技を一つ一つ習得することによって、剣技の全体を習得できる、という方法を確立したのです。剣を技術化した、といってよいと思います。こうすれば、その技の一つ一つなら、誰でも、練習次第で、習得できます。

●芸術といわれているものは、ほとんどが技術に分解できる、ということは知っておいてよいと思います。

●レーニン、革命は技術だとみなそうとしたのは、革命家の恣意的な意志に、可能なかぎり、革命の運命を委ねたくない、という考えからでたものです。

●天才ほど、技術を大切にする、ということは、私たちの教訓になるのではないでしょうか。ところが、凡人は、おうおうにして、部分部分を組み立てる、時間のかかる労苦をカットして、一足飛びに、物事の核心(生命)を握ろうとしてしまうものなのです。ですから、すぐ失敗して、二度と試みない、ということで終わるのです。

●実際のところ、よく考えるための最短コースは、書くことにある、と断言できます。たくさん読んでも、あれこれ話しあい、議論しあっても、どれほどパフォーマンスを繰り返しても、明晰判明で、ふっくらとした説得力をもつ思考に達するためには、書いてみなければならない、ということです。

目次

思考の技術 基礎篇
第1講 自分で考える時代が始まった
1.「無知の知」(ソクラテス)をけとばせ
2.「我考える、故に、我あり(デカルト)をけとばせ
3.自分で考えるとは思考の大衆化である
第2講 情報時代は、考える人間をつくる
1.暗記魔という天才よ、さようなら
2.情報は誰にでも開かれている
3.考える技術が問われる時代がやってきた
第3講 教養―普通知―の時代が始まった
1.「教養主義」よ、さようなら
2.「専門主義」よ、さようなら
3.教養の人の時代がやってきた
第4講 歓迎、「モラトリアム」の時代
1.「モラトリアム」を否定する思考
2.「モラトリアム」を肯定する思考
3.「モラトリアム」人間とは、思考する人間のことだ
第5講 「アート」から「テクノロジー」へ
1.「芸術家」と「技術者」
2.「芸能人」の時代
3.思考の「アート」から「テクノロジー」へ

思考の技術 実践篇
第6講 考えるための読書術
1.忘れる読書
2.一人を読む
3.嫌いなものを読む
第7講 話すと書くとはおお違い
1.話すと、書きたくなる
2.話は、思考を中絶させる
3.書くことは、思考の最短コースである
第8講 書く技術
1.小論文を書く
2.論文を書く
3.ワープロソフトで書く
第9講 マニュアルで考える
1.マニュアルをつくる
2.極論を張ってみる
3.正しさは、真ん中くらいにある
第10講 飛んで考える
1.古典や権威をけとばせ
2.「現在」に注意深くあれ
3.自分で考えるとは、自分など消して考えることだ

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